生来のなまけもののため、物事を素早く遂行することができないのだが、なぜか食べるのだけはものすごく早い。
何かに突き動かされるように、半ば強迫観念のように食べるのが早い。
この原因が何なのかずっと分からなかったのだが、あちこちオードリーを観ていて、ちょっと思うところがあった。
ボンネットの話
あちこちオードリーのオリエンタルラジオ・中田のあっちゃん回で、若林さんが車のボンネットの例え話をしていて、非常に共感してしまった。
私は今39歳になるが、20代前半から30代中盤まで、ずっとボンネットを開けて中を見ている毎日だった。
自己分析・内省の日々である。
と書くと何か修行しているようだが、要するにああでもないこうでもないと、自分の内面ばかり考えていたのだ。
今ももちろんボンネットを開けて見ることもあり、前よりは故障した箇所も分かるようになってきたのだが、どうしても分からない部分があった。
それが、冒頭に述べた、食べるのが早い話である。
食べるのが早いのはなぜなのか
仕事がものすごく詰まっていて、早く食べないと間に合わない…!という経験から早食いになったという部分はある。
もしくは、弟や妹におかずをとられまいとして早食いになったのかもしれない。
どちらもそれらしい理由なんだけど、何かこう、それだけではないような気がする。
ボンネットを開けてみる。
早食いの原因となっている部分はどこだろう。
…
このパーツは恐らく、罪悪感だ。
食べることと罪悪感について
食べ物をテーブルの上にそのままにしておくと乾いてくる。
母親に「早く食べなさい」とよく言われた。
だから、早く食べないと罪悪感が生まれる…
という記憶でもあれば話が早いのだが、特にそういう記憶はない。
忘れているだけかもしれないが。
もしくは、命を食べることに対する罪悪感かというと、これもちょっと違う。
そうではなくて、これは、幸せな状態に対する罪悪感なのだ。
食べているとき、美味しいなぁという気持ちと同時に、極々うっすらとだが、罪悪感みたいなものを感じることがある。
ご飯を美味しく食べる。
これって非常に幸せなことだ。
でも、世の中には、ご飯を美味しく食べられない人がいる。
それは、アフリカの子どもたちの話とはまた別で、世の中の幸せといわれることがフィットしない人の話だ。
私も常々、そういう幸せが自分に似合わないと思っていたフシがある。
ご飯を美味しく食べるって、幸せの象徴だ。
まして誰かと一緒にご飯を食べるのは。
そういう、自分が幸せなご飯を食べている状態に対して、罪悪感があるとどうなるか。
「あぁ…すみません…幸せにご飯を食べてしまって。」
食事中に無意識に湧いてくるこの罪悪感を取り除きたくて、早く食べ終わりたくなるのだ。
オードリーの共感力
私は若林さんの本を読んだあたりからオードリーのファンだ。
あちこちオードリーでは共感力の話が出ていたが、あぁだから自分はオードリーが好きなんだな。と妙に腑に落ちた。
共感力がある人は、共感力がある人を好きになる。
共感力があるのがいい・悪いではなく、共感力が強いと、不幸な状態にも共感しやすくなる。
辛い状態の人に対して、ものすごく共感してしまうと、自分も辛くなってくる。
それが自己同一化していって、幸せな状態に対する共感より、不幸な状態に対する共感が強くなると、自分の幸せな状態というものは、非常に居心地の悪いものになる。
美味しくご飯を食べるという幸せなことから、逃げたくなる。
録画したあちこちオードリーを観ながら、私は朝食を食べていた。
大好きなオードリーの番組で、同世代のオリラジあっちゃんが出演している。
こんなに幸せな状態はない。
いつもはすぐに食べ終わる朝食だが、今日はゆっくり味わっていただくことにした。